月刊ソトコトに載った記事

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 に」「日本のために」という「信念」 の下にどれだけ多くの子どもや大人が呑み込まれ、身動きがとれなくなっていることか。
 ウトさんは、子どもたちを大切に思いながらも、ただ甘やかすのではなく、呑み込んで窒息させるのでもなく、ぐいと突き放す厳しさをもつて対時してきた。自らの子どもや夫の死、戦争やそれに伴う想像を超える困難に正面から向き合い続けてきた。その生きる姿を通して、命の光と影を、しつかりと子どもたちに伝えてきたのだろう。
 からっと透き通る青空のような笑顔は、ただの無邪気な子どもの笑顔ではない。あっぱれ沖縄のグレート・マザー!





帯びている。 失われた時間と空間がある。懐かしい未来がある。
命をおおらかに育む地であり、多くの命が呑み込まれた地でもあ
る。受容的であると同時に排他的、圧倒的に明るく輝く生と同時に、深い死の闇に包まれている。
旅のハイライトは、沖縄のオバア、饒平名ウトさんに会ったこと。
沖縄のからっと透き通る、青空のような笑顔。のオバアといえば、グレート・マザーを代表する存在。ウトさんは植物を植え、育て、増やし続けてきたという点で、存在そのものが環境育成的だ。生態と対話し、呼吸をあわせながら、そのからだは躍動している。
 ウトさんは沖縄本島北部、本部半島で暮らす。これまで8人の子どもたちと、無数の紫陽花を育ててきた、全国有数の紫陽花園の現役園長。ウトさんは昔から紫陽花を栽培していたわけではない。人生の艱難辛苦を超えて、60歳の頃、紫陽花を植えはじめた。
好きではじめたことが、結果として人々の目を楽しませ、こころをなごませ、仕事としても成功した。
 ウトさんの紫陽花園はたまたまはじまった。ウトさんは語る。
「主人の兄に、ある日紫陽花の株を2、3貰って、一人で隅っこに植えてみた。少しずつ増やすうちに、いつのまにかこんなに人が来る紫陽花園になった」。ウトさんの語りには一切の気負いがない。
紫陽花園の谷間を吹き抜ける風のようにまっすぐで爽やかだ。
 スタートが通常は引退をしはじめる年齢。「すごい紫陽花園をつくつてやろう」などという野心はなかった。30年かけて黙々と植え続け、口コミで人が見に来るようになつた。初めは無料で公開していたが、見学者が増え、最近になつて入園料をとって見せるようになった。今では、国内はもとより海外からも大勢の観光客が集う。2、3株だった紫陽花は、いまや7000株、20万輪に増えた。日本では、少子化が問題になっていて、さまざまな施策が検討されているが、紫陽花も子どもも、何かをねらって都合にあわせて無理に増やすべきものではない。
 餞平名ウトさんは、大正6年生まれ。今年の誕生日がくると90歳になる。貧しかった時も、若しかった時も、人とのつながりを大切に育ててきた。18歳の時、和歌山県の紡績工場に働きに出かけ、20歳で結婚、戦傷を負った親戚を助けながら、必死で生き延びてきた。子どもたちを育てあげ、さあこれから共に人生を楽しもうと思っていた矢先に夫を亡くした。家族の死という哀しい喪失体験を突き抜けた笑顔には、童女のおもかげが宿る。強くしなやかで美しい。とらわれのない笑顔。紫陽花園に立つウトさんのからだがひらひらと舞いはじめると、あたりの空気が動いて明かりがつく。惜しみなく分けあたえてきた光が、周囲を照らし、再びウトさんにきらきらと反射しているように見える。
ぐいと
突き放す厳しさ


 現在のウトさんの楽しみは、子どもや孫の成長だという。子どもが8人、孫が23人、ひ孫が19人。グレート・マザー、ウトさんの存在は、家族のなかで絶対だ。「子どもの頃は厳しい母だった。友達が遊んでいても芋の畑で働いて手伝った。辛かった」と次男は語るが、母に向けるまなざしには、愛情と畏敬の念があふれる。
 グレート・マザーの二律背反性、すなわち産み育てる方向性と、呑み込み殺す方向性を母は自覚しておいたほうがいい。昨今流行の「命の教育」でも、命を産み育てる母なるものの、陰をおさえることが必須。「命は大切です」「虫や草花の小さな命も愛しましょう」といったことを呪文のように唱えるのではなく、命が内包する破壊的な側面をいかに子どもたちに伝えることができるか。「我が子のため
 
 記事は以下のとおりです。

 早春の沖縄に行った。飛行場からレンタカーで、本島北端のやんばる地域へ。このあたりは、沖縄のなかでも樹木が豊かな所で、外国の木材が輸入される前は、林業が栄えていたそうだ。太陽、海、大地が原初的な力を失っていない沖縄は、場がグレート・マザーのような性質を